カテゴリー別アーカイブ: 【復刻】禁煙への道

11. 禁煙日記 – 突然、禁煙になった

(禁煙第一週)突然、禁煙になった

<旧ホームページより転載 2003年7月綴>


禁煙日誌

日付 曜日 日数 本数 日誌
6/20 -6 5 なぜか、この日から本数を減らそうと思った。節煙をすることでいずれ禁煙につなげたいというぐらいの気持ちである。吸いたいと思ったときには手元にあったガムを口に放り込んだ。時計と睨めっこである。さっき吸ったのは1時だから3時まではガマンしようという感じである。その間は口の中にガムを放り込んで気を紛らわした。
我慢した後の一服は至福の一服である。
我慢比べとごほうびの一服である。
まあ、お遊びである。結果として節煙にはなった。
タバコに比べればガムは安いものであるので惜しみなく噛んだ。ガムの味とか触感など楽しむことはしない。口の中に入れておきたいか出したいか、噛み疲れたかどうか、飽きたかどうか、が基準になる。
6/21 -5 3 ルールは昨日と同じとして今日も挑戦しようと思った。挑戦するにあたり朝一番の一本に火をつけた。実にうまい。朝一のうまい一本を吸いながら節煙のやる気が出てきたので今日は一気に朝・昼・晩の3本にしてみた。仕事や場所の関係で半日ぐらい吸えない事はたまにあることなので、やればできると思っていた。
昼がくるのが待ち遠しかった。昼の一本は迷わず昼食後の一本にした。食後であることと数時間ではあるが禁煙したことの達成感でそれはそれはおいしい一服であった。
さて、夜までガマンしようと思うと考えたが夜とはいつだろう。
仕事が終わったとき?
夕食が終わったとき?
風呂から出たとき?
寝る前?
悶々としながら吸うタイミングを模索して、結局吸ったのは仕事も夕食も風呂も終わって寝るにはちと早いという絶妙のタイミングであった。
なにが絶妙であるか。吸うことを伸ばすだけ伸ばしてニコチン枯渇の限界状態になったときにうまい一服をこころゆくまでゆーーーっくりと吸ったのである。吸った快楽を思う存分堪能するだけでなく、その余韻も思う存分堪能できる絶妙なタイミングである。
今日一日、待ち遠しいと思いながらガムを噛んで自虐的なゲームを楽しむ自分がいた。
気負いは全くない。
6/22 -4 3 私は、朝は食事をとらない。健康によくないと家族も医者もみんないう。私も理屈は理解できるが、ずっとこれを続けてきたので自分の体からは朝食抜きが悪いことであるとは思わない。毎度の独善的私感である。
こんな状態で、朝起きてからすぐに一服。
これがうまい。
っで、これに目をつけた。
朝起きて2時間我慢しようと・・・。
これはきつかった。
この2時間の間でこれがゲームではなくなったことに気がついた。試練・挑戦・葛藤・・・という漢字が頭の中に並んでいた。時計の針が進むのが本当に遅いと感じた。
もちろんガムを噛んだが落ち着かず、ちょっと濃い目のコーヒーを何杯か飲んだことでしのげたように思う。
昼までの時間はその分短くなり、ちょっと落ち着いた。夜は昨日と同じようなタイミングで一服した。
6/23 -3 4 せっかくだから、スーパーへ行って金に糸目をつけずに効果がありそうなものは買ってみることにした。ガム、アメ、スルメ、コンブ、サラミなどいろいろと買ったが、金に糸目をつけずと気負うほどのことではなかった。
普段、私は自分のためにはお菓子を買わない。そもそも欲しいとは思わないのである。
だから、欲しいものではなく効果がありそうなものという基準で買ったつもりである。
ガムは甘くないキシリトール入りのものでこれは効果があることは実証済みである。アメもできるかぎり甘くないものをいくつか選んだつもりだが、アメをなめた後に口の中に甘みが残る感じが嫌で私には合わない。コンブ、サラミなどのおつまみの分類に入るものは、ただただおいしく頂いただけでちょっと違うなっという感じである。唯一あたりめは、その硬さから結構いけるなっと感じたが、いかんせん匂いが強烈なので使える場所が限定される。
朝我慢の2時間。意識せずに迎える昼。待ち遠しい夜。
ここまでは、昨日と同じであった。今日もやったと思いながら机に向かっていると無性にもう一本吸いたくなった。本当に強烈に吸いたくなった。今日買ったお菓子の山を目の前にするとむしろ一層強烈に吸いたくなった。
っで寝る前にもう一本吸ってしまった。
このとき相当葛藤した。この葛藤が中毒だと思った。
6/24 -2 2 昨日は予定より1本多いので、今日は1本余分に減らすことにした。朝の一本に至る強烈なガマンがあるため、昼の一本は乗り越えられると思った。
昼飯を食べた後すぐにガムを放り込んだ。ガムを放り込んでは捨てるという動作を延々繰り返した感じである。そうしているうちに夜を迎えた。そして、ご褒美の一本をゆっくりと吸った。
6/25 -1 2 せっかく1日2本に減らすことができたので、今日も2本とする。同じように昼の一服を止め朝と夜だけにした。
朝起床後2時間の我慢、日中の我慢、終始タバコが吸えるときのことを考えた。昨日はそれほど感じなかったが今日は終始たばこのことを考えていた。中毒だと思った。体調・気分・環境とたばこの関係を感じた。
私は間違いなくたばこ中毒であるが、日によって節煙の苦痛で七転八倒する日と特に何も感じない日があり、その隔たりは相当大きい。今日はどんな日かはその日を迎えてみないとわからない。
それは毎日だれもが感じる「今日の調子」というもので、たばことは関係ない。しかし、たばこは「今日の調子」と密接に関係がある、といまさらながらに感じた。

<旧ホームページより転載 2003年7月綴>

12. 禁煙日記 – 悶絶しながらも続いている

(禁煙第二週)悶絶しながらも続いている

<旧ホームページより転載 2003年7月綴>


禁煙日誌

日付 曜日 日数 本数 日誌
7/3 8 0

おふくろと夕方電話で話をしたときに禁煙していることを話した。妻には早い段階で話をしたが、それ以外の人に話をしたのは2人目である。

私は「自分にできることしか人に言わない」性格である。「不言実行」は、私には無理である。これは能力と意志の問題である。しかし、男として「有言実行」ぐらいは何とかしたい。言ったことは必ずやり遂げるようになりたい。しかし、私の人生ではこれもなかなか難しかった。結局、「有言実行」になるためには、「自分にできることしか人に言わない」ということになってしまった。あるいは臆病なのかもしれない。

っで、おふくろに言ったということは、自分の中で「できる」という自信があることの表れである。もちろん、いまだに一日に何回も「吸いたい病」が襲ってくるが、撃退する自信ができている。以前は戦わずして逃げている感じがしたが、今は口に何かを放り込んで戦いを挑み勝負している。もちろん勝負は全勝である。

7/4 9 0

久しぶりに夢を見た。なんと喫煙の夢である。この年になると夢の詳細や前後関係は覚えていないが、記憶にあるのは以下のシーンである。

たばこに火をつけ快楽の一服を楽しんでいる自分がいる。半分ほど吸ったところで、禁煙を忘れていて不注意にも吸ってしまっていたことに気づく。あわててすぐに消すが吸った事実に苛まれ、思いっきり苦悩する。

夢の喫煙シーンはこれしか覚えていないが、不注意とはいえ半分を吸ってしまった自分を大いに責めるのであるが、今考えるとその攻めっぷりが尋常ではない。せっかくの禁煙をたった一度のミスで振り出しに戻すことに怒りを感じているのである。裏を返せば、禁煙期間中の苦痛をもう一度繰り返すことの苦痛(恐怖)を感じているのだろう。

禁煙をしていることをおふくろに言ったこと(自信)と禁煙することの苦痛(不安)が、自分の気づかない深層心理の中で葛藤しているんだと思った。

7/5 10 0

夜、家族とともに焼肉屋で食事をした。最近無性に焼肉を食べたいと思っていたので外で買い物に出たついでに行った。行列のできる店だが、夕方だったので混んでおらずすぐに席に案内され、メニューを見て、そして恐怖を感じた。

「焼肉とビールとたばこ」である。このゴールデントライアングルを外の焼肉屋で耐えられるかである。禁煙してから、外の酒場に行くことをかなり強引に避けてきた。「酒とたばこ」の関係を断ち切ること、禁煙に対する他人の恣意的な行動、など今の自分にはとても耐えられないと思ったからである。

私の性格からして、酒を飲んだ勢いで「今日だけ!一本くれる」と友人に懇願するのは目に見えている。今の私の禁煙は、酒の勢いの前には敢え無く敗退するだろう。

焼肉を食べたいがために「焼肉とビールとたばこ」を忘れて焼肉店に入ってしまった。さすが人気の焼肉店である。ビールと焼肉が次々と運ばれていく。テーブルからは焼肉の煙が上がっている。煙の向こうにはビール片手に焼肉とたばこで談笑するおっさん達がいる。正直「ビールも焼肉もたばこもみんなうまいんだろうな~」と思った。

しかし、結果は「特に苦はなく」である。現段階では「焼肉とビールとたばこ」がフルコースでうまいんだろうが、「焼肉とビール」でも十分堪能できるのである。ただし、たばこに対するガマンは少なからず必要であった。

7/6 11 0

やはり、日曜日は手持ち無沙汰である。とにかく何かをし、何かを考えることである。

先週の教訓から学んだことは、
何をするかはあまり関係ない。大事なのは、それを外ですることである。それから、座らないことである。座るというのは一服を意味する。だから、外で動き続ければよい。
ということである。これで今日の昼間は特に苦もなく凌ぐことができた。

さて、問題は夜である。上記の教訓は夜には当てはまらない。っで、結局どうしたかというとダメを承知で食べたのである。テレビを見ながら、本を読みながら、間食とも夜食ともつかないようなものをだらだらと食べた。いい方法だとは思わないが間が持てるので、苦渋の選択をした。そして、いつもより早めに寝た。

7/7 12 0

医学的根拠は何もないが、ニコチン中毒の症状抜けたように思う。しかし、たばこを口に運ぶ習慣からの呪縛はまだぬけられない。今私を襲うのは、「吸いたい病」ではなく「口寂しい病」である。

もはや体はニコチン依存症ではないと思うが、頭がニコチン回顧症になっている。つまり、人が吸っているのを見るとたなこを吸うことの快楽が記憶としてよみがえるのである。

人がたばこをすーっと吸い込むときに「ああ、あの感じを・・・」となり、すーっと吐いていると「あの瞬間の快楽が・・・」と思うのである。

「あの快楽を、あの瞬間を、もういちど味わってみようかな」
「これだけ耐え抜いてきたんだから、一本だけなら大丈夫だろう」

などと考えるのである。まさにテレビで見るヤク中患者の転落の瞬間である。

リハビリとは、体の改善ではなく、頭の改善である。そして、心の問題であることを実感した。

7/8 13 0

灰皿がなくなって一週間ぐらいになる。実は、禁煙と同時に灰皿を片付けるべきだったのかもしれないが、なぜかしばらく机の上に置いておいた。禁煙開始後数日たってから灰皿を見えないところに片付けた。今から考えると、禁煙で悶絶している自分には過酷であったと思われるが、なぜかそうしていた。この行動の意味が今日わかった。

灰皿は、私にとっては大事な「もの」であったのだ。語彙が貧困な私が恥を忍んで敢えて使うならば「必須アイテム」であったのである。

ちょっとしたゴミはゴミ箱を使わず、近くにある灰皿を使った。私が灰皿を近くに置くのか、灰皿の近くに私が座るのか、灰皿は常に私の手の届く範囲にあった。

私の灰皿は工芸品でも洗練されたデザインでもなく、じつにありふれたガラスの灰皿であるが、机の最もいい場所に常に大きなスペースで鎮座ましましていた。今日までまったく意識していなかったが、私の灰皿は私の歴史の中に静かに居続けて、私にとっては大事な「もの」であったのだ。

いつもの癖でちょっとしたゴミを手を伸ばして灰皿へ捨てようとすると、そこに灰皿はなく、意外と大きな空きスペースが身近な一等地にあるのである。まさにぽっかりと空いている感じである。ぽっかりと空いているのが空間であるとともに心の何かであると気づいたとき、灰皿が大事な「もの」であったことに気づいたのである。

人によってはそれはライターであるかもしれないが、私には灰皿であった。たばこは文化であると思っているが、この思いがより一層増した瞬間であった。

7/9 14 0

これで、禁煙14日となった。自分の中でもHPで公開しても大丈夫と感じ始めたので、この日にアップロードする。

将来、禁煙に失敗したとしてもこの段階までは禁煙にかなりの自信があったことを記録しておきたかった。

将来、禁煙に失敗したら、それはニコチン中毒に負けたというよりは心の葛藤に負けてしまったんだと思う。

<旧ホームページより転載 2003年7月綴>

13. 禁煙日記 – 口が荒れてきた

(禁煙第三週)口が荒れてきた

<旧ホームページより転載 2003年7月綴>


禁煙日誌

日付 曜日 日数 本数 日誌
7/10 15 0

実は昨日、朝起きたときに口臭が気になった。自分でもわかるほどの口臭であったのでこれをどうしようということばかりを考え、なぜそうなったかということには思いがいたらなかった。
その日は、歯を磨き口を濯ぐと口臭が消えたわけではないが、それほど強烈ではなかったので一件落着してしまった。口臭が気になることは何も初めてではなく、酒を浴びた翌日や体調がよくないときなどは自分でも気づくので、昨日もその程度だったのである。

しかし、今日も朝起きると口臭が強烈だった。朝、寝床でまどろみながらも今日は明らかに舌の先が荒れていることがわかる。今までの経験から、昨日酒を飲んだわけではないので原因は体調にあると考えた。しかし、体調はすこぶる良好である。自分の体調で変化があったとすれば禁煙である。

「禁煙をすると舌が荒れるか」ということを考えてみた。禁煙をするとその初期にはニコチンやタールが体から抜けるため、タンや排泄物にそれらが混じっていることがあるそうだ。私のもその一環ではないかと考えてみるものの、舌が荒れることは体にとってマイナスであり、不要な物質が体から抜けるプラスの現象とは一致しない。

そこで、ふと思いついたのがガムと梅である。禁煙前までは考えられないこの習慣により口の中が荒れたのではないかということである。キシリトールのガムや乾燥梅はどう考えても中性ではないし、それなりの口内刺激から考えると、これらを1日中口の中に入れていれば口の中が荒れてもおかしくない。

私の中で原因は解明された。ガムや梅の量をコントロールする必要があるのだが、禁煙による心のよりどころまでももぎ取ってしまうことになる。いまさら禁煙を止めるわけにもいかないし、口の中が荒れて口臭がきつくなる訳にもいかない。口が荒れれば消化器系に悪影響が出ることは私の経験則からあきらかである。

不安いっぱいでガムや梅を口に入れることをやめる。

7/11 16 0

東京ビッグサイトへ行った。半日歩いていたので口寂しい病はほとんど発病しなかった。ガムや梅無しで1日を過すことができた。

この日の感想としては、私の心の葛藤は「禁煙対喫煙」ではなくて「口に物を入れるか入れないか」になっている。

7/12 17 0

やはり、舌が荒れている。朝、起き掛けの口臭もやはり気になる。ガムや梅の大量摂取が原因と思っているが、やめてから2日たつが改善の兆しがない。

朝起きて歯を磨くまではかなり強烈な感じがするが、朝起きてすぐ歯を磨くので起き掛けの口内不快感はその段階で劇的に軽減する。歯磨き後には、口臭や舌のザラザラ感がほとんど感じられないので、日中それを感じることはほとんどない。それゆえに朝起きた直後の不快感たるや尋常ではない。

とにかく様子を見る。

7/13 18 0

たばこをやめて、ガムや梅をやめて、「口寂しい病」と戦っているが、その戦いもそれほど苦にはならなくなった。しかし、たばこをやめたことによるもうひとつの副作用を痛切に感じるようになった。

たばこをやめた当初は、
「口寂しい病」を紛らわすために間食が増え太る
という構図を思い描き、ガムと梅という防御策を講じた。

しかし、最近はちょっと違う症状のように思う。それは、たばこをやめたことで食欲が増進したのではないかと感じるためである。
食欲が増進して空腹感がより強くなり間食に対する欲求が出て太る。
という症状のように変化したように思う。

この年になると「食欲増進」となって、「はいそうですか」と簡単に受け入れるわけにもいかないので、食欲を抑制するようにしなければならない。

禁煙とは、次々と難題が降りかかる厄介なものだとつくづく感じる。
っと同時に、そんなやっかいなことをしている自分がいとおしく思い、禁煙に対する姿勢が強固なものだと感じる。

7/14 19 0

今日の朝は、口内異変がかなり軽減したように思う。私の考えでは、やはりガムや梅という刺激物を短期間に大量に取ってしまったことで、口内特に舌が反応し、強烈な口臭になったのだと思う。
(相変わらず、医学的根拠のまったくない私感である)

7/15 20 0

あれほど欠かさなかった食後の一服も今は特に望まない。起き掛けの一服や寝る前の一服も意識しなくなった。今目の前にたばこがあっても、それに火をつけて吸おうという気は多分起こらない。

ところが、人がたばこを吸っているのを見るとうらやましく思う。つまり、たばこではなくたばこを吸っている人には羨望の気持ちがまだある。

すーっと吸っている様子をみると、
「あー、今ニコチンが体の中に入っているんだなー」
と思う。

はーっと吐いている様子を見ると、
「あー、あの瞬間がいいんだよなー」
と思う。

たぶん、物質的なニコチン依存症状は脱していると思うのだが、忘れえぬ快楽の記憶がまだ残っているのだと思う。記憶に対してとる対抗策は思いつかない。たばこを吸っている人を見ないことが唯一の抵抗であるが、別に見たくて見ているのではなくたまたま目が行ってしまったのだから防ぎようがない。

あのきんさんぎんさんが名言を残している。
「長生きの秘訣は」と聞かれて、「忘れることだ」と言った。
今まで生きてきて辛いことがたくさんあったそうだ。それをすべて記憶していたのでは心身ともに持たないと言う。たしかに2人が生きた時代背景を考えればわれわれの想像を超えた辛酸をなめてきたことは容易に想像がつく。昔のことを上手に忘れてきたから長生きできたのだそうだ。

今の私には、上手に忘れることのひとつがたばこである。

7/16 21 0

禁煙とそれに伴う諸症状や諸現象がひと段落し、安定期に入ったと思う。これで、一生禁煙できるという自信はまだないが、今回の禁煙は相当の期間続くとは思う。もし、再び喫煙する時には、最初の一本を吸うためのよほどのことがあったのだと思う。

そういうことになったら、今度は喫煙日記をつけてみる。

<旧ホームページより転載 2003年7月綴>

14. 中毒と依存症

国家と中毒 – 中毒と依存症

 たばこは依存症を引き起こす。

  よく知られているようにたばこに含まれているニコチンには依存症がある。ニコチンによる刺激には、目が覚めたり、集中力が増したりする覚醒作用と、気持ちを落ち着かせる抑制作用がある。

 ニコチンが切れるとニコチンの刺激を求めてあらゆる努力を払うようになる。そもそもニコチンが切れた禁断症状になることへの恐れから、常にたばこを手元に置くようになる。私は、たばこを切らしたことがない。

 このような状態は、中毒というよりも依存症である。

タールには依存症はないようだが、明確な発がん性物質である。

中毒:
もういちど味わいたいという精神や行動。

依存症:
物質の使用に本人の意思によるコントロールが効かない状態。物質を使い続けていくうちに、使用量が増えたり禁断症状がおき、これにより日常生活に支障をきたす症状。

<旧ホームページより転載 2003年7月綴>

15. 国家として

国家と中毒 – 国家として

あらためてたばこについて列挙してみるといろいろなものが見えてくる。

<教育>
子供に、たばこ・酒・麻薬などの薬物、についてどのように教えるか。中毒・依存症・禁断症状・健康被害をどんな線引きで教えるのかをすべきなのか。その線引きと法律とをどのように解釈させるか
私も知りたくなった。

<国家事業>
現在では、たばこは国の事業ではなくなったが、国家収益の重要な柱であり、実質は委託事業である。たばこと酒の税率は、ガソリン税と同様に歪な構造である。
ガソリン税が公共事業と産業構造による政争の具となるため、利害調整が困難であるのにたいして、たばこ税や酒税は財務省にとって気楽な税金である。

<国家のモラル>
嗜好品であるたばこは、「やめるのも自由、嗜むのも自由」。これはもちろん財務省のコメントであり、もちろん詭弁である。
依存症になってしまった人には「やめる自由はない」
依存症と禁断症状とやめられない現実と国家のモラル。

※依存症物質と国家の関わりを問い直したい。
依存症ではないが中毒になりえる博打や宝くじと国家(地方公共団体)も同様である。

ヤクの売人と国家?
不法胴元と地方公共団体?

裏社会と国家の統制?

<旧ホームページより転載 2003年7月綴>

16. 夢を見る

あれから1年以上経ちました – 夢を見る

 2~3カ月に一度、タバコの夢を見る。

  この年になると、夢を見る機会も相当減ってきているが、まだ夢は見る。(夢は見ているのだが夢を見たことすら覚えていないのかもしれない)
その夢はシチュエーションこそ違えストーリーは決まっている。

 何の気なしに目の前のタバコに手が伸びる。口にくわえてごく自然に火をつける。何十年も繰り返してきた動作なので実に自然である。
 そして、紫の煙を燻らす(くゆらす)のである。その紫煙は実にうまく、ゆったりとしたときの流れに身をゆだねる。実に久しぶりの心地よさである。ふ~~。

 タバコの火も徐々にフィルターに近づき最後の吸引を行おうとすると頭がくらくらしてくる。

「あっ!」

 禁煙していたんだ!! っえ? 何で吸ったんだ!! おい!! こら!! どうしてくれる!! っえ!! いままでの苦労が水の泡か? 何で吸ったんだ!! あのときの苦労が水の泡? どうしてだ!! どうしちゃたんだ!! 取り返しのつかないことをやっちゃったな!! あ~あ。

 あまりに軽率な自分の行動に落胆してしまう。「覆水盆に返らず」を虚脱した全身で感じる自分を哀れだと肩を落としきると眼が覚める。

 この夢から禁煙が私にとって如何に過酷なものであったかがわかる。

 しかし心理的には納得できない。それほどの苦労をし現在もなお達成している自分に満足感と自信があるのに、夢の自分は軽率で意思薄弱である。
 このギャップに深層心理があるとしたら・・・

<旧ホームページより転載 2003年7月綴>

17. あれから1年以上経ちました – 残り香

残り香

 酒の席、食事の席、喫茶の席、会議の席など、かつてはタバコが欲しくなる場所でも、今はその欲求が出てこない。喫煙場所では時には嫌悪すら感じる。

 タバコの嗜好は無くなったと思っていた。

 しかし、何かの折、ふとした場所(たとえば、カーペットが敷かれた往来の少ない廊下)でタバコのかすかな残り香を感じることがある。残り香の具合が全体の空気と周りの雰囲気の中で実の絶妙の配分であるとき、

「あ~吸いたい」

 と思う。

「あ~旨いだろうな」

 と思う。

<旧ホームページより転載 2003年7月綴>

18. 禁煙継続剤

あれから1年以上経ちました – 禁煙継続剤

禁煙の継続剤には、梅ガムとアセロラガムである。

ともにロッテの製品なのだが、梅ガムは買えるところが限定されるが、アセロラガムはほぼどこでも購入できる。私の好きな梅ガムはあまり人気がないようだ。

<旧ホームページより転載 2003年7月綴>